|
■非構成的エンカウンターグループの感想
|
● Hさん 女性
参加して思ったことは、体験しないとわからないと思ったこと。ちょっと聞いていたのですが、それ以上に、何が起こるか分からない濃い内容でした。特に自分の心の変化や動き、そして話をストップしてしまう気持ち。日常の中でも起こっている心の葛藤がもっと深い感じで理解できる感じがしました。自分と正面から向かい合い、その上で、人と話すという行為の尊さを感じることができました。
ただぱんぱんと打ち返すような会話ではなく、深い流れから起こってくる必然のような感覚。これこそエンカウンターの意味なのかもしれないと思いました。 |
● Aさん 女性
今までこんなにたっぷり自分のこと、周囲の人たちのこと考えた時間はなかったです。小さいころからの出来事や自分の体に対してもじっくりむきあった2日間でした。今思い出しても、その時間が嬉しくてじんわりと体があたたまります。
わかったことは自然体でいいんだということ。(漠然の表現ですが・・)日ごろ・・しなければならない、良いこと言わなきゃ、場の空気をかえなきゃなどとどうあるべきかを無意識のうちに意識して自分の空間を創り上げてきたような気がします。大きく手をひろげありのままの自分でいいんだということをつかめそうになった感じです。
これからの生活の中で無理せず自分を表現していくこと、何より自分の感覚を実感すること、周囲の人たちをも自然体で受け入れることができればいいなと思いました。 |
● Kさん
ワークショップ初参加!記念すべき第1回(自分史上)ということで、一番、「よくわからない」ものに参加しました。行ってみて、初めのセッション(と言うのも不思議な気がする・・・)が始まってまもなく、どんな内容なのか実態がつかめてきました。
「完全に自由」と言う括りの中では、なかなかみんな言葉が出ないんだなぁ、と観察していました。テーマが無いのがテーマ・・・面白かったです。そして、私は「そういえばさ・・・」とか、「あのね!」とか話したいことがどんどん出てきて、でも、みんなが余りにも初めの言葉を発しないので「自分ばかりが話しちゃっていいのかな??しかし、みんな黙ってるからいいのか!」とか色々思いながら結局は、結構、話の口火を切る事になりました。
私は、せっかく見ず知らずの人たちと、何時もの知人ではない人達と話が出来る機会があるのに黙っているのが勿体無く、自分の話しに周りがどう返すのか興味深く、あれでもセーブしつつ(^^; 話していたのですが、盛り上がった話は「戦争」「強制収容所」など、深〜い話が多く、そして誰もが経験していない、未知の分野だったなぁ、と、人の興味はやっぱり「正確にはわからないもの」に惹かれるのだろうか・・と思いました。
私が、今回「よくわからない」から、このワークショップに申し込んだように。
そして、最近の自分の認識である「人はみんな違う。この瞬間は二度と無い」と言うことをあらためて思いました。
自分よりもかなり年若い人達が悩んでいる姿、人生で何度目かの転機を過ごしている自分、50歳になってもまた同じように悩む知人など、「人生生涯謎と発見の連続だ」と、人間の知りたい欲求は尽きないのだなぁ、と思いました。
出会いも出来事も偶然に見えて、会うべくして会っている、起こるべくして起こっている・そんなことを思います。
そして、それを起しているのはすべて自分の中から出て来てるのではないかと思います。 |
● Sさん
実際に"非構成"というスタイルを経験してみて、沈黙という状態が決して居心地の悪い状態だとは限らない、むしろ、空虚な会話で埋めるよりも遥かに「気持ちの良い」状態になりうるのだな、と感じた。多分、その沈黙は「真の」コミュニケーションを求めての沈黙だからだと思う。また、それはその場に居る人たちが全て"今、何をしているのか"ということを理解してくれている、という「信頼」があってのものだと思う。その「沈黙」を破って自分が言葉を発する時、それは結構スリリングだった。
「自分は本当にそんなこと話したいのか?」「(自分が話そうとしていることは)この場にふさわしい話しか?」「自分の話しに誰も乗ってこなかったらどんな感じになるだろう?」「もしかして、沈黙を楽しんでる人がいたら迷惑かな?」などなど、いろいろな考えがよぎり、葛藤がある。"ちっちゃい"自分を発見したりする。
このスタイルは、プログラムのようなものに「対応」していればいい、というものでないためいろいろな面で意識的にもなる。「自分」を観察している「自分」。その観察している「自分」を更に観察している「自分」。。。その結果、自分の癖や(行動)パターンにも気づいたりもした。(実際、私も「あ〜、自分はこういうとこ、良くないな。」と気付いた事がいくつかあった。)
それから、今回のワークショップを体験したことによって、日常生活でしばしば遭遇するちょっと気まずい沈黙、
そんな場面でもちょっとしたオプションというか、引き出しが新たに持てたような気がする。きっとそのような時、今までのように沈黙を埋めるための言葉を発するだけではなく、もっと違ったコミュニケーションが取れるんじゃないかな、と思う。
またいつか、参加してみたい。 |
● Mさん
「新しいステージをガイドスピリットに用意してもらいたい」と言っていた中身が、今の状態からの逃避であったということ。今の自分の周りの環境や状況は 「すべて」 自分で作り出したということ。今の職場内に苦手としている人がいて、彼が、自分のことしか考えないわがままで自分勝手でずるくて、…、、 彼が僕に協力してくれないのなら、僕だって…、、 協力しない。。愛を分けてあげない。彼の好きにすればいいさ。。そのうち思い知るだろう。彼のうそがみんなにばれるだろう。 その時になって後悔すれば助けてあげよう。。と、思ってました。
「その人のことどうでもいいって思ってるのかなぁ?」
「ドキッ」
まずは、自分の目の前にいる人から 「はじめましょう」 その人に対する贈り物。。自分の中の愛100%で齎す。純粋な気持ちで。
「世界平和だとか大きな夢にむかってやるのはいいけど、まずは自分の周りのひとから…。」
「自分の態度を変えるだけで本当にその関係までかわっていくんだよねぇ、、」
「同じこと繰り返してるんだなぁって、やる事かえてもまた同じような状況をつくりだして、結局そこを乗り越えないとって気づいたの。」
なるほど。。そこですか。。僕が導かれる場所はそこなんですね。。
まずは、ここから、逃げないでやってみますか。。 と、いう感じです。 |
● Tさん
非構成式エンカウンターについて考えたときに思いついた言葉は3つ「関係」「存在」「言葉」でした。
まず「関係」について。
普段一人で沈黙をしてそして内にこもっていろいろと思考するのと、エンカウンターとでは何が違うのだろうと考えた際に気づいたことは、そこに「関係」というものが存在するかしないかということだと思いました。一人の時にはどれだけでも自由に考えられ、そこには自分対自分という関係が作り上げられているように思えても、実際は、自分の狭い思考やら思い込みやら勝手に作り上げてしまった像などに縛られていることが多く、実は自由が少ない気がします。
一方、今回参加した非構成式エンカウンターは、たとえ誰一人話さずにいて、沈黙の時間が流れていても、そこにいるというだけで、メンバーと自分との「関係」を意識的無意識的に感じざるを得ない空間でした。
他の中にいる自分という人間
他とともに行動する自分という人間
他に対して発言する自分という人間
他から言葉をもらう自分という人間
他から影響を受ける自分という人間
他に対して羨ましい、嫉妬、否定的やら共感的やらの感情を抱いている自分という人間
他を意識しながら自分について考える、自分という人間
「存在」について。
自分の存在や、感覚、感情をなかなか意識できないと、それに自信がもてないと思っていたのですが、二日間を終えて、メンバーからいろいろな言葉をもらいながら、他は私を確実に感じてくれているという気持ちになりました。そして、途中から参加された人たちが加わるたびに、このグループの雰囲気が確実に変わっていく様子を感じながら、人の存在の大きさに驚きました。その人は言葉を発したわけではなく、ただ新しく加わってそこに座っている。それだけで、ものすごい私に語りかけてくる。というより、自分がその沈黙の新しい人に、心の中で新たな関係を結んでいて、その存在をびんびん感じているのだという感覚になりました。
改めて、その人が「いる」というだけの存在の大きさに気づきました。そして、他をそんな風に思えるように、自分の存在にももっと同じような気持ちで気づいていきたいなと思いました。
「言葉」について。
グループに参加している間中感じていたのは、他の言葉の重さと、他の言葉がその人となりを本当によく表していると思いました。表現の上手い下手ではなくて、言葉を発するときの雰囲気やら伝えようとする気持ちやら、内容やらが、その人のヒトトナリを本当に表していると思いました。それを感じたときにもやはり、では自分はどんな言葉を発したっけな?と自分に帰ってきます。自分のヒトトナリが言葉に表れているということを、確実に捕らえることは難しいので、やはり自分の存在を意識するということは難しいですが、自分が何かを発しているという事実はわかりました。内からこみ上げてくるものを言葉にしているんですよね。
最後に。
私はもっと人と関わっていこうと思いました。そこから自分がもっと分かってくる気がしています。人の「存在」ということを意識できたこともすごい大きい収穫でした。
今回集まった方たちは本当に素敵な方ばかりで、しかも皆さん本当に個性的で、本当に同じという人がいない。でもなぜか誰かが話し始めた事柄は、皆に共通するような感じだし、誰かに向けたメッセージが、結果的に自分に向けて発せられていたような、そんな不思議な体験でした。
それと、二日目を終えて、夜に不思議と全く疲れを感じずに、むしろ理由の分からない爽快感を得ていたので、そのまま夜中からDVD「告発」を見たんです。ケビンベーコン扮する囚人が勝ち取ったVictoryってなんだったんだろうと考えました。
あの映画を見ておもったVictoryの意味とは、自分の存在というものは、究極的には何にも脅かされないという、真の自由というか権利というか、やはり自分という存在はもう誰にもどうにもされない唯一の存在なんだぞ!それを証明したんだぜ!っていうVictoryだったのかなと思いました。主人公は、友達もいなかったしもうすでに望むことなんかもなくなっているような精神状態だったからこそ、そのVictoryと、クリスチャンスレーターの弁護士との友情さえ手にして自分で実感したら、それだけでもう十分満たされて、結局独房に入ることも恐ろしくなくなったのかなって、思えました。究極の満たしですよね
この「告発」のメッセージを、やはりこのエンカウンターでも受け取れたと思いました。私は私なんだなって。 |